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2025年08月14日(木曜日)更新
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第1000号(最終回)
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○偶然ですが明日は80年目の終戦記念日でもあります。当方は小学校3年生で家族と一緒にラジオの前で(ただただ)放送を聞いていた記憶があります。大人たちは何か話し合っていたと思いますが子供には戦争が終わったという深い意味は理解していませんでした。
(前号続き)○活字世界のこぼれ話・過分数さんは業界誌の社長さんです。当方が営業担当になった頃、業界紙は3紙ありました。翌年、当社の年賀広告を読むと社長名が前社長のままで請求書がきました。担当者へ支払い拒否にしていたら謝罪に日参され、以来公私共にのお付き合いになりました。残念ながら現役中に病にて召されたのが残念でした。
○医療マスコミ現場からお笑い徒然草・松井宏夫さんとの出会いは、某スポーツ紙の連載記事を読み編集部へ切り抜きを見せ弊社から単行本になりました。ご本人はそれがスタートで医学評論家、大学教授、医学ジャーナリスト協会副会長と駆け上がり、コロナ禍ではOB会の相談窓口としてご指導を受けました。多忙のためユーモアにはご縁が少なかったけど日常ではお世話になりました。気さくな方で仲間の病気に相談役みたいなご支援を頂いております。
○北の大地 四季一隅・不破康夫さんは明星小と三条高の同期生です。同期会があると三脚付のカメラで集合写真や小型カメラでのスナップ写真を忙しそうに部屋を周っていました。収集している花写真を山のように頂き紹介させていただきました。
○新版・イブ伝説・の伊藤裕作さんは当方が週刊大衆時代にライターとしてお会いしていました。どんな分野にでも簡潔で読み易く編集部では人気の方でした。短いご縁でしたがユーモアでは電子出版にも賛同を得ました。今年の賀状では堂々たる和服姿で一瞬色川武大(阿佐田哲也)先生を思いだしました。
○幸福論の二階堂正弘さんは当社の漫画アクションのスタッフでした。机が近かったこともあり週刊大衆のカット絵などでもお世話になり、ユーモアでは種村国夫先生の個展にて再会しお願いしました。鎌倉在住のユニークな先生です。
○贋作 千夜一夜物語・栗原靖夫さんは週刊大衆時代の同僚でした。ただ早いうちに退社され、その後永田さんのOB会で再会し文筆業を続けているとのことでユーモアを勧め執筆頂きました。同年配ながら病のためお別れとなりました。
○赤い糸・雪だるま姫さんは、帯広で当方が三条高校3年間バイトした、うさぎや書店の娘さんです。去る日帯広へ帰省した折にお世話になった店主夫妻の菩提寺へご案内をいただき、私も書きたいというのでお願いしましたが途中にて切れてしまいました。連絡は途絶えています。
○ユーモアクラブのためになるユーモア・中山善之さんは小・中・高の同期生です。互いにクラスが一緒だったり離れたりしていましたが、当方が上京後外資系のタイムライフ勤務と分かり吉川孝二とうい同期生も交え結構な時間を楽しみました。その後独立し翻訳者と出版者の関係で弊社からも凍る地球という翻訳書を出版したこともあります。後年故郷に住まいを変えたので帰省時には延泊して再会を喜びあっております。お互い酒量の減ったのが悔しくモゴモゴ言いながら、また会おう・・励ましあっております。
欄外にある今日のゲストさん。実はユーモアクラブを開設したときに頂いた応援メッセージです。
○さいとうたかを先生は、お兄さんのリイド社社長さんへ原稿をお願いしての文章で、自己流血液型分析を基に祝い文を頂戴しました。先生とは社長共々何度かゴルフをご一緒頂き、ティ・ショットでもパターでもキャディさんに一度も訊くことが無い唯我独尊の姿に感動したものです。私と同年なのに先に旅立たれ残念至極であります。
○出版科学研究所 所長(当時)の早川友久さんはお酒のお仲間でした。賀状の愛猫の話なども愉快でした。ゴルフも楽しみました。近年は歩行に難がありお会いできないのが残念です。
○ブックマン 社長(当時)の木谷仁哉さんは元同僚です。営業職でありながら当方が覚えた原価計算を熟知し、編集と営業が交流して互いに切磋琢磨しようとの思いを達成できずにブックマン社へ転職し、あの伝説の宮沢りえ写真集で165万部という偉業を達成させました。今は悠々自適の老後を楽しんでいます。
最後は何といっても株エイターさんです。当方が労担時代にお世話になったOさんから紹介されパソコン設置からお世話になりました。当時はHPを新しく作ろうとすれば100万円時代です、それを格安でお願いし以来毎週、更新の都度お世話をおかけしています。事務所も3度ばかり変わりこの度久しぶりに訪問致しました。社長と担当のMさん他数名の会社に成長されておりました。記念にと特製似顔絵と花束をプレゼントされ・・我が家の部屋に飾ると、同行したかわはらさん曰く、日に日に顔の陰影が本物に似てきて、これこそ玄人の作品だ! 驚いております。 当方は、周りに描かれた四つ葉のクローバーが好きで、実は住まいの地区センター庭でこれまでに数枚ゲットしているので額内に一枚、向かって左下へ貼り付けさせて頂きました。
慣れない商標登録から始まり創刊時代のあれこれを、さながら久しぶりに出会った親戚の会合みたいに語り合い、本当に楽しいひと時でした。札本社長からは、当社がある限りこのHPは存続さるよを聞き涙が出るほど嬉しい気持になりました。この20年間本当にお世話になり心からお礼申し上げます。
○さて、このユーモアクラブの商標権は10年単位で更新しています。来年2026年8月にはどうなるかは分かりません。当方が元気でおりましたら存続させたいのですが、単にタイトルを所有するだけでなく発信などの具体的な使用も必要なので誰かによって引き継がれるのが一番良いことです。
そもそもユーモアのきっかけはホスピス運動の草分けといわれた柏木哲夫先生のご著書・ベットサイドのユーモアから頂戴しました。癒しの川柳に、▲腹割って話して分かった腹黒さ ▲粗大ゴミ朝に出しても夜戻る などを読み共感しました。他にも、ある病院の待合室でおばあさん同士の会話、▲「なんだねぇ、あの世ってよっぽど良いんだねぇ」「どうしてぇ?」「だって誰も帰ってこないでしょ」。さしずめ現代のプレバトブームにあやかり、こうしたユーモアを愉しむ余裕が欲しいところですが、○○ファーストとか俺流の発言が目立つ昨今ではその余裕は無さそうです。せめてタイトルだけでも残しておきたいと願うばかりです。
皆々様 長い間のご支援に厚くお礼もうしあげます 有難うございました。
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2025年08月07日(木曜日)更新
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第999号
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〇いよいよラスト・ワン号であります。皆様にはこの20年の間、ご愛読を頂きまして本当に有難うございました。またご執筆頂いた皆様にもご協力に厚くお礼を申し上げます。
この間、故人になられた方、はたまた消息不明の方、年賀状にて辛うじて繋がっている方もございますが、どなた様にもこれを持ちまして一応の区切りとさせて頂きます。その節にはご支援を頂きましてて心よりお礼もうしあげます。
お互い年齢的には数年の差はありましても、あまりにも身近なゆえに老後の今は、どうしていますか?など尋ねにくかったり、電話を入れても消息が分からない方もいらっしゃるのですが一応元気だった頃を思い出しお礼といたします。
〇けやきぶんこ・鈴木富夫さん。雑誌協会時代に世界雑誌大会でオランダ・日本・ドイツ大会などお世話になりました。遊びではスコットランドのゴルフも楽しかったです。お互い数年後にウェブ発信者と読書塾塾長になるなど考えてもおりませんでしたね、有難うございました。
〇種村国夫ギャラリー・種村先生とはGMGゴルフがご縁で、その後個展がある都度伺うとワインや日本酒などをご馳走になりました、美味しかったです。奥様にもお世話になりました。
〇トイレマーク見てある記・冥途の旅で読む本・大熊昭三先生。母校三条高校の担任で文芸誌玉響を3号編集させて頂き私の東京への夢を叶えた方です。偶然弊社発行の本で評論家としてテレビ出演されているのを観て駆け付け再会を喜び合いましたねぇ、以来長いご縁でした。
○幸せを呼ぶ百福地蔵・かわはらえいこ様、亡き父母を慕い宛先のない絵手紙を作成している姿を見て百ある福の字をお地蔵様の衣に描くことで供養絵を描いた我が愛妻であります。中途号での終了に残念そうですが、今までの協力に心より感謝しております、ご苦労様でした。
○ピチピチユーモア・東みちまろさん。母校三条高校の同期生でしたね。お互いクラスは違いましたが生家は浄土真宗坊主の息子だとは知っていました。東京でクラス会があり再会、漫画作家として活躍し弊社へも何度か来社頂きましたが、当時は青年漫画誌と成人漫画誌との若干の読者層の違いから連載は叶いませんでした。ユーモアで快く意気投合し長くのご支援にお礼申し上げます。今は賀状だけですがお互い元気で頑張りましょう。
○Mr・ヨーロッパの北広次郎様。突然イギリスからメールを頂き、私も参加したいがどうかね!とのお便りに嬉しかったです。カット写真は私がイギリス旅行の折にこの街の姿が気に入り使用したところ偶然そこがお住まいと知りお互い奇遇に笑いましたね。東京にて一度お会いしたら同じ年齢でした、最近は如何お過ごしなのか・・ちょっと分かりません。
○体力老人のすすめ・達者な年寄り観察ノートの中達 広さん。ある日、日光の元業界保養地で夕食中、しきりにお酒のお代わりに動くご夫婦を何げなく見ていると元会社の同僚ではなか!吃驚仰天、カラオケ室で飲めや唄への大騒ぎ。ユーモアのことを話すと俺も協力するよ・・長い長いお付き合いとなりましたね。お互い心臓病の先輩後輩となり結構病気の話では助言を頂きました。生憎PC故障を期に終わりましたが元気のご様子で一安心です、お世話になりました。
○私を笑わせた話たち・私を考えさせた話たちの安田健介さん。昭和42年家族経営だった弊社に労働組合が誕生しました。当時、ウチの会社にも京大卒が入社したと喜んでいた創業社長。その目前に当人が書記長として相対したから社長は青天霹靂の驚きだったでしょう。私も喫茶店でボクは協力できません。はっきり断り企業内組合の発足に努力しました。安田さんはその後退社して弁護士となり、OB会で再会しユーモアに参加してくれました。気鋭のG社で単行本が決まりユーモアへも印税の一部が納金されました。有難うございました! 近況は分かりません。
○映画と今昔物語・ムカツク世相に怒りの一言。永田哲郎さんは元同僚で先輩です。釧路出身とは聞いていましたが、安田さんたちの組合結成以後、同業他社を調べると出版界は企業内組合を設立し自社独立が一般的と知り、声の大きい?北海道出身や信州出身の仲間と二つの組合が競い都労委の調整が入るまでやりあいました。そのご縁で独立した永田さんとの交際は長く、私の退社後は協力してくれました。90歳を過ぎてちょっと行方が分かりません、残念な事です。
○面白ことば.ゲーム・滝沢てるおさんは5歳ほど先輩の同僚の方です。入社頃数十名の社員は月に1回スキヤキ鍋を食べる誕生祝を創業社長がやり、滝沢さんが軽妙洒脱な司会で盛り上げておりました。その趣味が後にテレビ作家として活躍し後年はクイズ作家としても有名でした。私が日本人のしきたりシリーズ・礼儀作法のしきたりを企画した折には素晴らしいお手伝いを頂きました。おしくも先年他界されました、本当にお疲れさまでした。{以下、次号}
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2025年07月31日(木曜日)更新
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第998号
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〇嬉しいことがあった。当方が昨年来消化器内科にお世話になってから、毎日服用する薬の量が増えピルケースを取り換えた。1週間を4列に並べた都合1カ月分のケースを2個、百円ショップで購入し、生活習慣病や血圧用と消化器内科用の二つに区分けした。それを並べて月に1回、全枠に日別で入れるのには半日仕事とまでは言わないが3時間弱は必要になる。区分は朝食後2種5個。昼食後1種4個。夕食後3種7個である。これに要する時間とは、そもそも薬の包装に原因があった。薬は1枚に2列×5段の10個が多い中、3列×7段もありこれ等を1個づつ包みのまま切り取ってケースに入れなくてはならない。その為にはシート状からミシン目に沿ってパチン、パチンと折り返すのだが固めもあればフニャフニャもあり、更に2列×10個でもそのサイズが違うのでハサミで左右どちらかを小さくしないとピルケースに収まらないのである。
嬉しいことというのはその中でもO製薬の薬の裏側が薄いビニール状の皮膜に覆われていて爪で押し込んでも取り出し難いことであった。家具製品もあるし清涼飲料も製造している会社だからどんな対応をしてくれるか・・思い切って苦情メールを送ってみた、6月中旬だったと思う。
〇丁度1か月後、何気なく今月分の薬に爪を入れてみると覚悟していた強さが必要ないほどの他社同様の製品に変っていた。いや、驚いた。思い返せば苦情メールを入れた翌々日にO製薬の医療情報センター担当者から「弊社製品をご愛用頂き有難うございます、患者さんの貴重なご意見として真摯に受け止め、今後の検討課題とさせて頂きます」があり期待はしていたが手持ち在庫も在るだろうから年越しの結論だろうとばかり思っていた。早速にお礼メールを入れたが近頃では珍しい嬉しい出来事であった。
ひとつ気づいたことがある。当方はまだお世話になってないが、経験として母や義母のお見舞いに帰省したころ、訪問看護の方が「あら、またお薬飲んでいないのねぇ」と大きなカレンダー風の袋をなぞり血圧の薬や内服薬の薬袋を整理していたことである。あの頃でも、飲み忘れはいつものことらしく、訪問看護の方はそれでも新しい薬を結構な時間をかけて整理していた。錠剤もあれば粉薬もあったようだが、掃除・洗濯などと併せこの薬の区分にかける手間を思い出し、自分も経験してみて猶更に理解できた。製薬会社とこうした訪問看護の方とが意見を出し合ったならもう少し合理的な製品ができるのではないか? お世話する方々の時間短縮に役立つだろうなぁ、今さらながら思う正直な感想である。
〇また1つ思い出した。このO製薬! 当方が現役バリバリの頃だから40年は経っていようか? ある日、同僚の編集局長が「君、営業で顔が広いよねぇ。実は大学同期生から、息子が入社した会社で今度新製品が出たらしい、それを宣伝のため無料で良いから配布せよとノルマを与えられたとのこと。なんでも点滴液をアレンジした清涼飲料水でポカリスエットというらしい、頼むよだった。当方とて飲んだことが無い、先ずは当社の全社員用に300本ばかり届けてもらったが千本単位で渡すところが無いか?という。そこで汗をかく印刷会社や製本会社、出版物取次店などへ、それも総務担当を通すと味が、とか健康を害したらとか煩くなるので営業のバリバリ役員連に依頼した。ほとんどの会社の現場は喜んでくれたが1万本には届かなかった。この製品3年も経ずして大躍進し今現在でも売れている。そうだあの時の社員どうしてるだろうか?名前も忘れてしまった。役職員として偉くなっているか定年で引退しているか? 編集局長も先年他界した今は知るすべはない。
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2025年07月24日(木曜日)更新
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第997号
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〇猛暑の最中、しかも連休の1日を選挙投票日にした与党! 翌日の新聞見出しは、これ程大きな活字はめったにお目にかかれないサイズで 自公大敗 大幅減 次の頁でも 野党伸張 政局こんとん・・ 自民党がここまで大差がつくとは想定外だったなどは今さら通じない。それは昨年10月の衆院選で少数与党になって肝心の法案成立に如何に苦しんでいたか、分かっていながらそれでも政権を担えるのは自民党以外にはないというおごりと民意を軽視した姿勢への反発だったと思う。当方は似たシーンを思い出した。
憶えていますか? 今から16年前の2009年、麻生内閣時代の混迷を、、。自民党にお灸をすえたい! 欧米のような2大政党になるのが真の民主主義であるとして民意は当時野党の民主党に政権を委ねました。当時の民主党には若手議員も多く世襲ばかりが目立つ自民党より優秀感がありました。ところがいざスタートすると財源の見込みが甘く、掲げていたマニフェストは未達成。円高を放置しデフレを加速させた。事業仕分けで公共投資を削減し、2位じゃダメなんでしょうか?が流行語になった。鳩山総理は沖縄普天間基地を最低でも県外基地へ!とか、偽装献金、引退撤回。管(直人)総理・野田総理も献金問題などで物議をかもし、原発停止・ダム建設中止など手続き無視で断行したりした。 結局、国家運営能力の欠如で内政上の失敗を数多く引き起こし国益を損ない続けた。稚拙な外交を繰り返し日米関係、周辺諸国との信頼をも損ねた。総理・閣僚をはじめ所属する議員の度重なる不祥事や、自分たちに都合の悪い情報を隠蔽したりもありやがて国民の信頼を失ってしまった。なんにでも反対するだけの野党だったから勉強不足が如実に現れてしまったのだ。
今回、おそらく年配者で特に世襲が多い自民党議員は、これを覚えていて甘く考えていたのではないかと思う。だが最近の選挙戦そのものが変わっていて、その読みが誤っていたのではないかと当方は考えている。出口調査の分析によれば50代、60代、70代は自民党が多いけど、20代以下や30代と40代は立憲民主党や国民民主党・参政党が多く、その他各党でも若い層は野党に投票している。物価高に対する回答を見ても、現金給付を望んでいる人22%に対し消費税減税を選択した人は72%だった。他にも自民党は企業・団体献金の廃止や選択制夫婦別姓を反対のまま先送りしているし、こうした問題に強い言葉で反論している各党の追求が功を奏したとも考えると、これからの自民党は難しいだろう。どの野党も連立を望まず、政策によってはと発言しているのを見ると政局はますます混乱するだろう。続投を発言した石破首相、それを簡単に受け入れるか自民党内でも揉めるだろう。だが誰に変っても運営の難しさは変わらないだろうから、これからが真の本番だ。
〇話は小さいが、この選挙投票日の2日前に当方が住む日野市で老人クラブが創立60週年を期にシニアクラブに名称を変更した。その記念大会に参加して吃驚、市の煉瓦ホール600名収容の会場がほぼ満席。それも午前9時半からの功労者表彰式からなので、席だけ確保して期日前投票に行こうなどとズルを期待していたが動けない。その後は余興の演芸会が、、これまた各部とも練習豊富で大きな声援に押され皆さん上手だった。歌あり踊りあり優劣を決めるのも素人では難しかった。更にプロによる手品や津軽三味線は暑さを吹き飛ばすほどの勢いを感じ楽しかった。終盤ごろ普段大きな声を出していない当方も、青い山脈・高原列車は行くを全員で唄う頃には大声が出た。何より嬉しいのは当方が所属するシニアクラブの合唱団が金賞を受けたことだ。早起きの成果が見事達成して終日気分が良かった。
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2025年07月17日(木曜日)更新
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第996号
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〇12日土曜日のNHKで、タモリさん・山中伸弥先生のAIと人体生命について特集があった。素人には理解できそうで話が進んでくると難しく結局分かったような分からないようなことで次へ期待することとなった。イギリスのロボットが手術など精密な技法はできるけど人間になりたいですか?人間を超えられますか?の質問に対し、はっきりと出来ませんと答えていた。人間が持つ意識とか食べ物を味合うという行動はロボットには出来ないことを明確に答えていた。ただAIが僅かの時間でコントを作り司会者たちが演じて見せると皆が笑って感心していた。AIは膨大なデーターを集積しているので、それを生かしながら次の言葉を予測することができるらしい。文章として、或いは言葉としてなら一つのフレーズが出たら次のフレーズも自然に出てくるということのようだ。ただ人間のように意識を以て自然体で生きるということにはまだまだ無理があるようだった。何故なら、そこには人間型の知能があるしそれは脳という複雑で1000兆個とやらの脳波が存在することのようだ。現在のAIは2兆個程度の神経細胞とか言っていたが聞き違いかもしれない。だが5年先には結構近づいてくるような論評もあり恐ろしいことである。
〇当方は昭和40年代、週刊誌編集部に配属されたことがある。娯楽主体の雑誌社だったのでオリンピックにちなんで近代5種クイズなどやっていた。麻雀・競馬・パチンコ・ゴルフ・宝くじだったと思う。そんな時大川慶次郎さんという競馬研究家がいた。予想家と言っても良いのだがこの方がテレビやラジオ放送で解説するとそれは単なる予想ではなく推理でもあった。後に競馬の神様とか競馬の推理作家だなど尊敬された人である。1日12レースを全て的中させた!などとも言われていた。大川さんは競争馬がレースを勝ち上がってゆくにしたがいデータを積み上げ勝てる、いや負けるの他に、このレースでは何故そうなるかという予測を推理して「競馬の推理」という出版物まで出した人である。最近といっても数年前からスポーツ紙でもAI予想という〇×予想が堂々と新聞紙上に載っている。当たり外れの結果を詳しくは分からないが、連載が続いているということは結構当たっているのかも知れない。
〇当時、当方も数奇学を学んだ占い師に予想をお願いしたことがある。スポーツ紙の競輪予想で結構な大穴を当てていた方なので競馬予想をお願いした。予想の仕方は騎乗する騎手と馬主の生年月日をみて今日は吉運か凶運かを占うものだった。時に大穴が的中して連載は10年ほど続いていたと思うが当方は担当替えで2年ほどにてお別れしていた。一度えらい剣幕で叱られたことがある、それは障碍競走で馬が躓き騎手が落馬したときだったと思う。つい、本音で生年月日の予測で落馬事故などという大事故は分からなかったのですか? 発言後しまった、と思ったがつい口に出てしまったから戻せない。一瞬苦い顔をして占いと現実の予測とは違うことを延々と話されたことがある。人も馬も生き物であるからして予測不可能なアクシデントが、それも自然界で起きたなら、それは予測外のことであろう。人の脳波にいくら数があっても知能があっても予測不可能な事故だって起きているのだ。突然頭上から人が落ちてくる、道路を歩いていたら突然穴ぼこに落ちる。後方から突然車が暴走して来る。AIとて、いや人間の知能とて予測不可能であろう。でも、これからのAIだっていつかは知能も発達し人類を追い抜き、それが良い方向に導いてくるとすれば有難いことだが、人間を敵とみなしたらそれは怖いことだ。あのロボットだって意志を持って敵対してきたら人間には敵わないだろう。医学的にも経済学的にも科学の発展は大いに望みたいところだが・・不安も多い。老人には残る余生は少ないけど・・見てみたい。
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