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仲達 広
1932年生まれ
早大卒。 娯楽系出版社で30年余週刊誌、マンガ誌、書籍等で編集に従事する。
現在は仙台で妻と二人暮らし、日々ゴルフ、テニスなどの屋外スポーツと、フィットネス。少々の読書に明け暮れている。

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2023年12月08日(金曜日)更新

第765号 〜8度目の申年に、幸運な人生を思う〜

 先日"地域のちょっとした会合"に出席したときのことだ。内容は地区内町内会の "老人会"と、その老人会を対象にした地区内の介護・看護施設との情報交換会で、私は町内会老人会長として話を聞きにいったわけだ。

 席に着くと前のテーブルに置いてある華やかな色彩の紙が目についた。手に取ってみると、A3の印刷物を一枚薄くて固いプラボードで両面からしっかりはさんだパンフレットで、華やかに見えていたのは紙面の上部4分の3を占める10枚ほどのイラストのせいだった。30年ほど前からだろうか、病院などの待合室でよく見かけるようになった例の「人生訓一言入り、ヘタウマイラスト」である。
 そしてそのイラスト群の上辺に横書きの大きめの字で(2024年辰年カレンダー)とタイトル、続いて小さく「訪問介護ひろせ」と業者名、イラスト群の下に1月〜6月の曜日カレンダーがある。裏も同じ体裁でイラスト群とカレンダーが7月〜12月に変わっているだけ。その会合に出席している業者のPRパンフレットである。

 そのパンフレットを手に取って見ながら私は胸中「そうか来年は辰年か」とつぶやくと同時に「辰巳午未申」……」と指を折っていたのだ。つまり来年から5年目に私はこの世に生を享けた1932年から数えて8回目の干支"申"を迎え、数え年で97歳になるのだ。だが私はそれまで生きていたいとはこれっぽっちも思っていない。
 5年という区切りは以前家内と約束したことがあって、ややこしくなるのだが、こちらは結婚65周年目を家内が大雑把に5年の区切りにいれたもので、厳密には再来年2年先にしかならない。8回目の申年とは大違いだし、いま冬場を迎えて気力体力ともいささか下降気味の私でも頑張れるだろう。

 ところで話はまったく変わるが、本日12月8日は82年前の昭和16年、日本海軍の機動部隊(空母を発進した雷撃機など)がハワイ・オアフ島の真珠湾アメリカ海軍基地を奇襲攻撃して太平洋戦争が始まった日だ。時差の関係で日本では月曜日だったがハワイでは日曜日、何の備えもしていなかった基地は散々にやられ、これを予告なしの"だまし討ち"としたアメリカは、以後"リメンバー・パールハーバー"を合言葉に4年近くにわたり日本々土をコテンパンにやっつけたのだった。
 しかし台湾で生まれ育った私はその日本開戦も知らず、アメリカ軍の攻撃を1発も受けず(戦後台湾を蒋介石に返すために控えた)、もちろん広島長崎の原爆や悲惨な沖縄戦も知らず、小学3年生の開戦から中学1年生の引き揚げまでノホホンと過ごしていたのだ。

 あらためて運が良かったのだなと思うし、これまで何とか達者で生きてこられたのも、そうした大きな幸運をはじめ、自分では気付かない小さな幸運が積み重なったおかげだと思うのである。
 これからも一日一日を大事に楽しく精いっぱい生きて行こう。
 

2023年11月24日(金曜日)更新

第764号 〜63周年の関白宣言"俺より先に……"〜

 本日は私たちの結婚63周年に当たる。つまり63年前1960年11月24日に私たちは明治神宮外苑の日本青年館で挙式したのだ。だが63周年は"○婚式"といわれるような記念日には当たらない。いま日本でも行われている金婚(50周年)銀婚(25周年)などの記念日はイギリス由来のもので、現地では1周年の"紙婚式"に始まり2周年"藁(わら)婚式"3周年"糖菓(キャンディ)婚式"……とけっこう続く。だが私たちは精々銀(25周年)と金(50周年)をどこかで祝ったぐらいで、3年前の"ダイヤモンド婚"もダイヤやミンクに無縁な私たちは何もしなかった。

 そして本日、私たちは松島の高台に建つホテルの最上階レストランで日本三景松島湾を眼下に一望しながらランチを味わっているのだ。運転に無縁の私はささやかに盃をなめている。この祝いの場を計画したのは家内だ。先日私のバースディをここで祝ったのがきっかけで「雰囲気も味もよかったから次もここで」と決めたという。
 家内も私と同様「楽しめるときは精一杯楽しもう」主義なのだ。でなければ63年も保つものか。

 というわけで私からお返しは家内への一言である。これはあれこれ考えた末にやっとさだまさしの『関白宣言』から思い付いた。
 曲は1979年に発表されたもので、作詞作曲もさだまさし歌と合わせて彼の"一人舞台"である。「お前を嫁にもらう前に言っておきたいことがある/俺の本音をよく聞いておけ」と始まり「俺より早く寝てはいけない/俺より遅く起きてもいけない」などと、"亭主関白"要求が延々と続く。中には「いつも綺麗でいろ/できる範囲でいいから」なんてトボけたのもあって私など面白く聴いたのだが、発表された年が問題だった。
 "団塊世代"が結婚適齢期を迎え男女の力関係が平等化し始めた「ニューファミリー時代」だったのだ。"亭主関白"なんてアナクロ(時代遅れ)じゃないかと一般大衆の反発を買い、特に女性からボイコットされてしまったのだ。このあたり何かあると行なわれる世論調査や人気投票と似ていると思うがどうだろう?

 曲への思い入れがちょっと長くなったがご勘弁いただいて、さて私の63周年の「関白宣言」である。たった一行だけだ。
「俺より先に死んではいけない」

 現在の私は眼が非常に不自由である。だから日常生活のあれこれも以前は苦もなくできたことの5分の1ぐらいしかできず、5分の4は家内に"オンブにダッコ"なのだ。いちばんダメなのがお金を扱う買物で、そのため私はレジではいつもお札を出してお釣りを受け取ることにしている。つまり家内がいなくなった途端スーパーまで乗せて行ってくれる車もなくなるのだから、まず日頃のメシにありつけなくなってしまうのだ。
 もちろんそうした買物の元になる金銭の細かい出し入れ、つまり通帳の管理もできない。年金が振り込まれてもわからないし、そこからマンションの管理費などが引き落とされてもわからない。要するにあらゆる点でお手上げなのだ。
 日頃楽しみにしている"書くこと""歩くこと"もできなくなるだろう。

 しかし二人とも現時点では大丈夫だ。去年の私の誕生日に家内がこんなことをいった。「あと5年、元気で生きて下さい」
 私がなぜ5年なのか聞き返すと「結婚65周年を二人とも元気で迎えたいから」という。つまり家内も私と一緒にしっかり生きるということなのである。
 その65周年は再来年、手を伸ばせば届きそうだ。これからも二人で楽しく一日一日をしっかり生きて行こう。
 

2023年11月10日(金曜日)更新

第763号 〜足も衰えた 別の楽しみを見つけよう〜

 現在私が楽しみにしていることが二つある。"書くこと"と"歩くこと"だ。
 "書くこと"とは本稿つまりこの「ユーモアクラブ」に隔週でこうした身辺雑記を発表していることだが、思い返してみるとそもそものきっかけが70年以上も昔、高卒後浪人中のときだったのだから、ホント"人生何があるかわからない"。
 くわしくいおう。東大受験に失敗し、もう1年浪人するか、就職するかと悩んでいた私に親友のI君が「浪人なんてもったいない、ワセダの文学部なら合格確実だから受けたら」と受験料を貸してくれたのだ。そして私はワセダの文学部へ入り、卒業後F社で書くこと読むことで給料を得るようになったばかりか、60年以上もの伴侶にもめぐり会ったのだった。さらにいえば本稿を書き始めたきっかけも10数年前出版健保の日光保養所で当クラブの支配人氏との偶然の出会いだったのだから、人の縁とは"ほとほと不思議なもの"というしかない。

 こんな内容でも書くときにはきちんと調べる。間違ったことを書きたくないからだが、その調べる過程でそれまでまったく知らなかったことに出会うのが楽しいし嬉しいのだ。
 例えば最近出会ったのは「ひかがみ」という言葉だ。漢字では「ニクズキ偏"月"に旧字の"國"を書く」である。われわれの体の特定の箇所をいう言葉だが、周辺の誰彼なくたずねたところ知っている者は一人もいなかった。多分現代日本人の99%は知らないだろう。「ひざの後ろのくぼんだ部分をさす言葉」なのだ。
 こういう"愚にもつかぬ"いや"突拍子もない"知識に出会うから書くことは楽しいのである。

 "歩くこと"はこどもの頃から得意だった。何しろ小学校入学から高卒まで短距離走では上位20パーセントが精々だったが、長距離ではいつもトップだったのだ。とにかく"真珠湾攻撃"の12月8日が小学3年生のとき"終戦の日"8月15日が中学1年の夏休み中という"軍国少年"である。当時よく耳にした言葉(内容的には"標語"とは程遠い)に「早あし早ぐそ早走り」というのがあったが、これが自分にピッタリ、将来はいい軍人になれるなと思っていたものだ。

 したがってその後の学生時代はもちろん社会人になり結婚してからもよく歩いた。
 例えば40歳から始めたゴルフである。当時F社は創業経営者Y氏が会社をD証券に売却し、D証券から経営を任されたS氏が新しい社長に変わっていたのだが、そのS新社長がわれわれ中堅社員にゴルフをすすめたのだ。だが私はすぐには飛びつかなかった。当時の私はゴルフは"金持ち老人や会社経営者のお付き合い暇つぶし"というイメージしかなかったからだ。
 ところが実際やってみるとこれが真逆もいいところで、プレー内容の95%は"歩くこと""ボールを打つこと"は5%たらずだったので唖然愕然。早速練習場へ行ってボールを打ち始め、生来の運動能力でたちまち上達、間もなく開催されたS社長主催の第1回コンペではコースを縦横無尽に歩き回り走り回ってあっさり優勝したのだった。
 また当時は日本中どこのゴルフ場も現在のような乗用カートなど設備されていなかったし、私と同時にプレーを始めた家内も一緒によく歩いていたのだった。

 その自慢の"歩くこと"が今年は激減なのである。歩数は5千がやっとだし坂道では爪先がよく引っかかる。「左の坂を上れば歩数も伸びるのになぁ」と思いながら諦めて右へ下りてしまう。脚力気力とも大幅減退である。5月の心臓治療入院のせいもあるが、一番の原因は"老化"である。私も91歳"寄る年波には勝てない"のだ。
 同じく歩くのが苦手になった家内と共に、別の新しい楽しみを見つけたい!と思っている。
 

2023年10月20日(金曜日)更新

第762号 〜満91歳 「老いもまた楽し」〜

 3日前、私は満91歳になった。高齢化社会の現代日本では珍しくもない。90歳以上がほぼ200万人もいるのだ。お昼前開店したばかりのスーパーへ行くと、昼夜2食分の買い出しに来ている高齢者の多さに辟易する。夫婦らしい二人連れも多い。皆さん買物カゴを乗せたカートを杖がわりに食品展示を物色しながら行きつ戻りつ流れの悪いことこの上ない。
 だから私はいまの高齢者社会にそぐわないし、生き方や考え方にもそれがあからさまに現われるのだ。
 1年前の90歳の自分と比べると、いまの私は体力筋力とも半分ほどしかない。たとえば去年のいま頃は「1万歩スイスイ歩く90歳」と豪語していたが、いまは5千歩がせいぜいである。なぜこんなに衰えてしまったのか、今年始めから身辺で起こったことを細大漏らさず書いてみる。
 昨年暮から今年新年にかけて私たち二人ともコロナに感染し、2週間ほど自宅引きこもりを余儀なくされた。当時は治療費薬代とも公費だったので、近頃の感染者にくらべればラッキーだった。次いで2月なかば私は強風北風の中を無理して歩いてひどい動悸息切れを起こし、かかりつけ医から「心不全」と診断された。この動悸息切れはその後も毎回歩くたびに出るようになり、4月末にはゴルフ部コンペの後のパーティにゲスト出席して相当飲んだときは、かかりつけ医からも「心不全悪化」といわれたほどで、この診断が後のカテーテル治療のきっかけになったのだった。
 頭の回転がにぶくなってきたのもこの頃だろう。毎週書いていた本稿が負担になり支配人と相談して隔週にしてもらい、現在はさらに負担の軽い月2回になった。

 また同じ頃かかりつけ医の紹介で、仙台厚生病院循環器内科を訪れて即日入院、数々の精密検査を基に、狭窄して役に立たなくなっていた心臓大動脈弁の"カテーテルによる人工弁との置換え治療"を行なったのだった。
 そして治療は大成功、以後動悸息切れもほとんど出なくなったのだが、20日間の入院生活は私の体力をすっかり奪ってしまったのだ。たまたま出会った町内の知人が「いやはや、すっかりやつれてしまいましたねぇ」と遠慮会釈なくいってくれたほどだ。

 だが現在の私はその後皆が手古摺った猛暑の夏を乗り切って気力体力とも元の90歳に戻った感じだ。「きゅうじっさい」なんて語呂もいい。すなわち私はこれから自分勝手なところではいつも「年齢90歳」なのである。

 ところで本稿の内容に気付いた家内がこんなことをいってきた。
 「あと3年は元気でいて欲しいな」
 
 理由はあと2年とほぼ1ヵ月で、私たちは結婚65周年を迎えるからだ。銀婚(25周年)金婚(50周年)ダイヤモンド婚(60周年)はあるが、65周年は特にない。
それでも目標を設けるのは別に悪いことじゃないので私はOKした。
 心身達者でさえいれば「老いもまた楽し」である。
 

2023年10月06日(金曜日)更新

第761号 〜胃もたれは夏バテの名残りかな〜

 暑かった夏もようやく終わり"天高く馬肥ゆる秋"の到来である。空は文字どうり底抜けに高く青く澄みわたり、また"実りの秋""食欲の秋"とあって肥えるのも馬ばかりではない。人も旬の旨いものに舌鼓を打って太ってゆくのだが、私にはどうも他人事だ。マンガによくあるサラリーマン同様「あ々食った食った」と店の前で腹なんかをたたいても、私の胃の中身はすでに小腸あたりまで移動しており、たたく場所は仲間達とは違っていた。

 ところが人1倍達者だった胃腸も年とともに衰えて、近年は食べる量も少なくなったし、おまけに妙な"胃もたれ"をよく感じるようになって辟易している。
 胃もたれの主な原因は"消化の悪いもの"を食べたり"食べ過ぎ"だ。消化の悪いものの筆頭は肉類、私の大好物である。
 話はちょっと脱線する。30年ほど前亡くなった胡桃沢耕史という直木賞作家がいた。彼は賞をとる前、清水正二郎という本名で双葉社の雑誌にも書いており、私たちは"シミショウ"と呼んでいた。このシミショウ氏の自慢が精力絶倫で、そのパワーは「肉を生で食べる」だった。そしてこのテの話にすぐ影響される私は以来ステーキをレアで注文し、馬刺しをよく食べるようになったのだった。

 本題に戻る。胃もたれではちょうど1年前にこんな経験をしている。家内が夕食用に茹で上げたスパゲティを1本つまみ食いしたところ、10分もしないでヘンな胃もたれに襲われ、「ひょっとするとガンでもできたか?」と心配になって,かかりつけ医に胃カメラ検診を予約したのだ。だが検診結果は"ただの胃炎"で何も問題なく家内ともどもホッとしたのだった。
 その家内もこの夏は私同様よく胃もたれを訴えているのだ。

 私の判断はこれは二人とも夏バテが尾を引いているだけである。とにかくこの夏の暑さは異常だった。ここ仙台でも35度近い日が続き救急車のサイレンを聞かない日はなかった。私に至っては5月から6月にかけて心臓治療のため20日間も入院していたため体力がガックリ落ち、回復をはかって歩こうと思っても猛暑にはばまれてできず、9月なかばを過ぎてからようやく朝夕の涼しい時間帯に始めたほどだ。あんな暑さの中へ病み上がりが1時間も出ていたら黒いお迎えが間違いなくやって来ただろう。
 そして私自身が実際にこの夏は"熱中症"と"暑気あたり"めいた症状で2度ヘタバッテいるのだ。そうした限度を超えた暑さが内臓や脳にも相当なダメージを与えていると判断しても異論はないだろう。

 古くからいわれていることだが"暑かった夏の疲れは涼しい秋になってから出てくる"のだ。実際老人が亡くなるケースも夏より秋が多いという。厳しい夏を何とか乗り切って気がゆるむのかもしれない。だが私はいまのところ大丈夫だ。天候さえ悪くなければ毎日3千〜5千歩はこなしているし、脳もこのとうり活動している。
「左眼が見えればもっといろんなことができるのに……」と家内はいうが、欲を出せばキリがない。見えないからこそちょっとした坂も慎重に歩くようになったのだし、車道を渡るときもできるだけ遠く見渡せる場所を選び、左右を何度も確認するようになったのだ。
 私はあと11日で満91歳になる。あの厳しかった夏の影響が胃もたれ程度で済んだのを"よし"として、これからも楽しく生きよう。
 
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